都市景観と広告
1.見ることの意味:
サンタクルーズ諸島の人々は「土地は残るが人間は死ぬ。人間は衰えて、埋められてしまう。われわれはわずかの間にしか生きられないけれど、土地はいつもその場所にある」という。人類学者によれば、未開人は自分の住んでいるところの景観に深い愛着を抱いており、そこでは小さな部分をも区別し命名しているし、人の住まない土地にさえ地名をつけているということだ。環境は未開人の文化に絶対必要な要素であり、彼らは自分の周囲の景観と調和しながら、働き、創造し、遊ぶ。彼らは環境に完全に自己同一化していると感じており、そこを離れることを好まないといわれる。 人間は環境との関係として景観に愛着をもち、土地に命名することによる物語の中に生きているといえよう。ここに展開された人間と自然環境との関係は都市にも類推される。都市における土地への命名は自然への命名の名残りなのか、土地との自己同一化のイメージは景観への意識の傾注を誘発するものとなっている。景観とは風景外観のことであり、環境の表面となって視覚によって把握されるが、環境のイメージのもつ本来の機能は、目的をもった移動を可能とすることであるから、景観は単に風景外観として鑑賞の対象とされるものではなく、環境を識別しパターン化のための視覚認識の問題は見ることに帰属するもので、環境と視覚との相対化の中で景観のイメージを決定することになるが、見ることから知ることへの移転は言語化されて心の中にすり込まれ心的風景として自己同一化にむかうことになる。見ることは目的と移動の機能を視覚が再現するという責任を景観の中で負っていることになる。
2.視覚対象としての広告物:
人々の暮らしの中で機能する都市景観の役割りは人々を結びつけるということにどれだけ機能できるかということであろう。都市は地方から集った人々を集約的に労働に結びつける役割をもって誕生しているものだから、その目的である人と人との関係の融和のために、そのコミュニケーション機能を発揮しなければならないという使命がある。ダイナミックで躍動する都市というキャッチフレーズは実体的ではなく、人々を都市へと誘惑するイメージの世界を形成することでしかない。 環境のイメージの創造は観察者と観察されるものとの2方向の過程である。観察者の見るものは外的な形態に基礎をおくが、これをいかに解釈し組織化するか、自分の注意をいかに向けるかということが、逆に観察者の見るものに影響を与えることになる。広告物のあり方もこの示唆の中に実現されなければならない。われわれが広告物に注意をむけ影響をされると同時に広告物に対して観察者の意見や要求がでてくるという相対的な関係になる。受容と批判の関係が主観的に機能するとき、広告景観の価値は問われることになる。さもなければ価値は問われず無視され、無関心のまま大衆は別の場所へと逃避することになる。そこには記憶を失った無意味なトポスが残るだけとなる。
3.空間の図と地:
平面はいかにして分裂するかということを分析したゲシュタルト心理学のテーマとして「図と地」の反転現象が説明されている。図は図のみで存在しているわけではなく、「図」が成立をするためには「地」となる部分が必ず存在していて、その全体の総和の中でこそ図が成立するということ、つまり、図と地は全体を構成する条件として成立し、図をみるということは地をみるということであり、その反対も認められるという両義牲のあるものとして認識しておく必要があるという考えに立っている。そこで空間という三次元がゲシュタルトの視点で見直されたとき、どのようなことが認められるかということがここのテーマである。 今日のわれわれの視点は日常のTVの影響もあって風景を二次元化された映像として見るということに慣らされてきた。したがって、関心の対象となっている広告物をある景観の中で眺めた時、その広告物は図となって風景の中にある他のものは全て地となるということになる。ゲシュタルトとしての相対的な関係が成立しているとなれば他のものに対しても同じことがいえる。景観の中で広告物ではなく建物や他の建造物に関心を示していればどうなるかということも検討してみる必要があろう。全体と部分の総和と分離による対立ということが認識されるべき対象である。
屋外広告の知識より抜粋監修=建設省都市局公園緑地課編集=屋外広告行政研究会定価(本体4.660円+税)